昭和55年04月23日 月次祭 二代



 この神様は面白い神様だなと思うんですが、今日又親先生が、昨夜から体の熱発が出まして、身体の調子が悪く成られまして、今日一日お休みになられました。ですから代わりに若先生が研修もしなさい。月次祭もさせて頂きなさいと言う事で、まぁおかげを頂いたわけですが。大祭が終わりましてこちら、それこそ皆さんもご存じの様に、一月間という間はそれこそ殆ど食のないままに、大祭前夜を拭変えた訳ですけれども。
 おかげでそれこそ一夜にしてもとの体に戻られまして。まぁ無事に大祭をあのように盛大に有り難く仕えさせて頂いた訳ですが。そして急きょ又昨日から、身体の調子が悪くなられた訳です。本当にあのう親先生の体て言うのは不思議な身体だと思うですが、それを聞かせて頂きながら、まぁここ大祭が終わりまして一週間くらいでしょうか。まぁいろいろ、事務もありましたし、いろいろ様々な仕事が残っておりましたので、こちら朝ご結界座らせて頂いて、裏の方で御用さした頂いておりましたんですが。
 ですからどうしても御結界の方が疎かになるわけです。それを聞かして頂いた途端に、あのう教会の心臓部と言うのは、間違いなく御結界だなと思うんです。ですからどんなに素晴らしい、あのう手になる人が居っても、どんなに素晴らしい足になる人が居っても。この心臓部が弱って居ったら、手も動かなければ足も動かないんだっと言う事を実感させて頂きました。ですから直ぐ黒衣に身を改めさせて頂きまして、御結界に着かして頂きましたら。福岡から伊藤さんと言う方がお参りになっておりました。
 もう感動一杯のお届けなんです。こちらはわかなないんです、何で感動しておられるのか分らないんですけれども。話を聞かして頂きますと、先日の御大祭の前夜に、伊藤さんがお知らせ頂いておられるのが、私しからきび団子と、コンペイトウを頂かれた。さぁ私に着いてきなさいと言うて、いうお知らせを頂いた、しかも親先生に掛けられた御神願が御成就相成ります様にとお互いが願っておるけれども。
 親神様の御神願が御成就になる、第一の具体的な事は、若先生に掛けられた願いが成就致します様に、と言う事を願うが第一と言う事を頂いておられる訳です。それでこれからの願いは、若先生に掛けさせて頂こうと思うて。その思いでお参りに来た所が、偶々私が着いた訳です。それでまぁ伊藤さん大変の感動をしておられた訳ですが。その話を大祭当日に、これもやっぱり福岡の方ですが、富田川さんにお話しなさったそうです。
 だがらどうでも富田川さんこれからは、若先生の代議の忠義ものになろうや。と言うて話したそうです。ところが御存じの様に、あのう大祭が終わりまして直前、あのう雹(ヒョウ)ですか、霰(アラレ)ですうか知りませんですけれど。この位のヒョウが降りましたですね。それを見て富田川さんが、あらぁ伊藤さんコンペイトウが降って来よると言うて感動なさったそうです。
 だから見る人が見るとやっぱりコンペイトウにみえるんですね。そしてそれの大祭が終わってバスで帰らせて頂いて、バスに乗らせて頂いたところが、横に島野さんですか、島のさんがお乗りになった。それで島のさんが、これ一つどうですかと言うてやられたのが、きび団子だそうです。本当におかげを頂いたよというて。もうお礼お届けを今日ふたぁりでなさったわけですが。そして富田川さんのお届を指して頂きよりました時に、たまたま電話がはいって来ました。
 これも福岡の手嶋さんと言う方でした。所が富田川さんがこの手嶋さんが現在難儀な問題を持っておられますけれど。この手嶋さんの事をお願いしょうと思うた所が、手嶋さんのお届を私が電話でしておる。そしてもうだから富田川さんも、お届けする事もなしにもう感動、もうそこでわんわん泣かっしゃって、なんで泣かっしゃるか分らんわけです。そしてその方が終わりましたら今度は、野口あきこさんこりゃ久留米の方ですが、お参りに なっておりまして。
 今度16日から若先生の、」御神願の御成就になります様に、と言う事を願わして頂きますと言うて、それからずうっとお届をなさった方なんです。と言う事はですからそこに4人次々に、あのうまぁ私しの願い、真を願えと言う事じゃないんですけれど、神様が今申し上げます様に、それこそおだててからでも使おうという働きを感じるわけです。それこそ親先生が仰る、もうそれこそ合楽理念を行じ様と言う気になれば、楽しくしかも嬉しく行じさせて頂く。
 私が本当にそうだなっと、私しが一週間ご結界を疎かにしておりました、そこに私しの心がまた神様の方に向わせて頂いたら、また神様がそれこそきび団子を与えて下さり、それこそコンペイトウをなめさせる様にして、お育てを頂く事を感じるわけです。今日も先程戎浦さんが、戎浦先生が話しておりましたように、今日午前中に修行生の方それぞれに、将来の布教に対する、願いなり思いなりを聞かして頂きました。
 と申しますのも、最近親先生がしきりに、まぁ貴方達は何時までもここに居座ってもらっちゃ困るばいと。一日も早く布教に出る願いを立てなさい。と言う様な急き立てがあります。こりゃお互い修行生の人がそれぞれに感じておられます。そして私しそのあのうお話し、皆さんの御話しをお伺いしながら、どうしてこの若さであのうこのような素晴らしい願いができるんだろうか。私はある人に冗談で、「あんた来年布教にでらにゃんげなよって。」言うたら「はい」って返事するんですよ。
 本当にあのうたいした勇気だ、たいした信念だと思うですが、それを聞かせて頂きながら、お話をさして頂きながら、これは私しを含めてですが。今日のお祭り仕え差して頂きながら感じたんですが。それこほはばかりなしのちっぽけなの私達である、私しであると言う事を改めて感じさせて頂きました。今朝ほどから御理解第100節、めでためでたの若松様よ、枝もさかえる葉も茂るというではないかと、金光大神の道は子孫繁盛、家繁盛の道を教えるのじゃと、教祖は説いておられますけれども。
 今までの宗教が、今までの金光教はどうもその様になってきていないわけです。それこそ栄枯盛衰世のならいのごとく、一時は栄えるけども2代3代になってきますと。それこそ目も当てられないような状態になっていく、そこに、ここに合楽の誕生の意義があると言う事なんです。それこそ教祖が仰る、子孫繁盛家繁盛、代まさりのおかげを頂いて頂く為に、どうでもいままでがいうならば、しんじを説いて来たならば、その超しんじがとくのが合楽理念だと仰います。
 どこがそこに超がつくほどしの事になってくるのか、それこそ今朝の御理解の中にもありましたように。袖に涙のかかる時、人の心の奥ぞ知られると言う事があるが、合楽では、そこの所が人の心の奥が分ったんじゃいけん、神の心の奥が知られるという事に、ならなきゃいけないと言う事を、お説きくださいました。言うならば人間の世界から、もう一つ高い世界へ、もう一つ高い次元のところに、住まわせて頂くと言う事が、それこそ超のつくおかげになってくる。
 しかも教祖の仰る、子孫繁盛家繁盛の、実証者になれれるということなんです。先ほども月次祭が始まる前に、今までは他所の教会で信心の稽古をなさっておられたんですが。縁あって合楽に御縁を頂いて、合楽で段々信心の稽古を指して頂くと。いよいよ合楽の信心の素晴らしさ、教えの深さに触れ、しかもその事をぎょうじさせて頂くと、確かにあのう信心の喜びを頂ける。
 本当に有難い事だと思うんですが、残念ながらお商売の方が、どうもすったりですというお届を聞かせて頂いたわけですが、是も皆さん、こりゃ皆さんもご体験のある事だと思うんですが。確かに合楽理念からいうならば、今まで右利きの人が左利きに変えるのには、大変な一つ苦労がいる。そこにそれこそなんでこの様にぎこちないんだろうか、なんでこんなにまともに書けないんだろうかと言うじれんまにひとつ陥るところがあります。と同時にいうならば、コップの水が今まで信心しておりました。
 それこそジーとして置いとく分には、それこそ汚いものは、ズーと下に沈んでいきますね。ですからいかにも何にもない平穏無事の様なんですが、一旦これを掻き混ぜさせますと、それこそ下のに濁りが上に浮いてくる訳。ですからそれこそもう、まひとつの信心の曲がり角というか、節に当る訳ですけれども。親先生のそれこそ若い時からの座右の銘としておられたのが、この節を大切にする人は伸びると言う。
 確かにこの度合楽の信徒会館、建設と言う大きな節年になり。合楽教会の誕生さして頂きまして、13年目と言う大きな節年に当る現在。今合楽に掛けておられます神様の願いを、それぞれのところに頂かして頂きまして、それこそ今まで私達がやってまいりました、それこそ我流の信心から、それこそ神様中の信心をさして頂かなければならない。時にきっておるのではなかろうか、しかも私しは今感じておりますのは。
 今合楽で本当に焦点の間違いのないところに、打ち込ませて頂いて。信心の稽古をするならば間違いなく、そこに信心の驚きと喜びを頂けるものを感じております。昨日は、佐賀支部の御大祭でありましたけども。それこそもう大変なあのう行き届いた、しかも始めての御大祭にして。どうしてこの様にすむうずに、しかも人材の上に、雰囲気の上におかげを頂いておられるだろうかとというほどしの。盛大なお祭りでございましたけれども。そのお祭りを仕えさせて頂きます直前に、こう教衣に替えさせて頂きました。
 そして修行生の方が鏡を持って来て下さいましたので、その鏡を前に立てさせて頂いたら。顔がこうよごんで見えるんですよ。ですから、こりゃなぁ様子の悪い自分じゃなかったろうと思うてみましたら、鏡を引っくり返してですね。このうなんちゅですか、凹レンズになってるわけです。ですから誰が写ってもこうよごんで見える分けですね。ですから鏡をまともにふして頂きましたら、まぁまともな顔が写りましてですが、その事から私は感じさして頂いたんですが。
 教えの鏡を前に立てると言うけれども、間違いのない教えを前に立てなければね。まともな事でも歪んで見えるんですよ。例えば道と言う事に迷う事なかれとかいう、親先生が仰って、手続きを大切にしなさい、信心は御用ですよという、そうそういう間違ったものの教えを前に立てさせて頂くと、いかにも間違っておる様な自分の姿がそこに写る訳です。それこそ過去の宗教でそれこそ自分の正体を見極めて行けば行くほどに。
 自分の信心が行き詰るそれこそ脂汗が、ドロドロしと出て、しかもそれこそ自殺に追いやられると言う程しの、宗教があるということですが。それこそ合楽理念の鏡を前に立たせて頂きますと、間違いなくその自分の、それこそ今写っておる、それこそ神心なら神心と言うものを写し出させて頂きますと。自分の心が拝みたい様な時がある。また反対に自分のそれこそ見苦しい姿を写し出させて頂くと。そこにそれこそ、自分の姿の汚さに辟易さして頂く。
 しかもそこにはその汚さを取る手立てまで、合楽理念は説いて頂いておるわけです。今日お祭りを仕えさせて頂きながら、自分のそれこそ信心の目の粗さというものか、を今日感じさせて頂きながら、今日のお祭り仕えさせて頂き、しかも神様が自分に対する、それこそ飴玉をしゃぶらして頂いて、ようやくそれこそ今日のお祭りを仕えさして頂いておる自分の姿を見させて頂いた時に、ほんとにあの申し訳ないな、というもうその事だけで今日の月次祭終わらして頂いた訳ですが。
 お互い、今、合楽に掛けられました、神様の願いを一つ願いとして聞かして頂き、お互いの生活の中にいまそれこそ誰の、誰でしたかね、信心にもの言わせると言う事を仰った方がおりましたけど。いまこそ合楽理念にもの言わさして頂いて。それこそ日日信心の驚きと喜びを感じさせて頂く、毎日であらして頂きたいと思います、今日はしどろもどろで申し訳ない事でございますけれども。飴玉をしゃぶってお話しをさして頂きました。真に申し訳ありません。
   有難う御座います。